食品添加物等の怖さを説く専門家は多くいる。私もYoutube等で彼らの発言をしばしば聞くし、あるいは同様の書籍を買って情報を独自に仕入れている。
こういった際、しばしば遭遇する矛盾というものがある。
たとえばAという医師がいて、Bという団体の安全性における発表は嘘っぱちだと述べる(あるいは書く)。にもかかわらず、同じ媒体内で危険性を述べる際にだけBという団体のデータを引用する――そういったケースだ。
不安を煽ると視聴者や購読者が注意を惹きやすい、というのは事実だろう。そのビジネスセオリーはさておき、大体セットとして出てくるのが「エビデンスは?」や「ソースを出せ!」といった反対意見だ。
何が述べたいかというと、不安を煽れば(あるいは単純にその危険性を広めたいと思うが故の行動だとしても)、その科学的根拠を述べないと信じてもらえない風潮が、いつの頃からかこの国に蔓延してしまったと私は感じているのである。
この傾向はちょっと危険だな、と思う。なぜならば、データ・統計・発信者の経歴など、目に見える数値や情報というのは、己の直感を削ぐものだと私は感じているからだ。
自戒を込めて述べるが、私たちは「忙しい」という文字のごとく、心を亡くす日常生活に(無駄に)追われている。もはや国民総せっかち状態と言ってもいいと思う。
とすれば当然ながら、欲しい情報は立ちどころに欲しいわけで「統計学・専門学的に問題ない公式」のデータをくれ! ――すなわち手っ取り早い方法でその情報を得たい、という発想になるだろう。
ところが私たち(少なくとも私)はそういったデータ・統計そのものを自身で取得しているわけではないし、独学で学んでいるわけではないので、これらの透明性や信頼性についてまでの追究ができないのである。
エビデンス・ソース・引用元などという言葉を利用するのは、往々にして自己判断からの回避(もっと言えば責任転嫁)の際ではないだろうか。
「我々は利便性を得る代わりに直感をなくしてしまった」。同様の文句をよくよく耳にするようになったが、その通りだと実感している。
そしてこのサイトのコンテンツに結びつけるとすれば、それは「食べ物」にしても言えることではないだろうか。
私たちは様々な情報を否応なく見聞きする現代において生活している。選択肢が多いというのは恵まれているようでもあり大変なことでもある。
情報の取捨選択能力を伸ばすのは当然のことだが「誰がなんと言おうが自分には合っているんだ」という自負。あるいは「こんな風に言われているけど、自分は間違っていないと思うんだよね」といった自信。はたまた「よく分からないけど、これだ!」なんていう直感こそが、現代で自分を守るために必要不可欠な能力だと私は思う。
このサイトに掲載されている商品が、あなたの身体に合うか合わないかは、あなたに委ねられている(という、実は都市伝説の免責告知みたいなお話でした!)。